ど素人がつづる、超有名な成語にまつわる物語。
なので、あまり信用しないでください。
そして、本気で怒らないでください…。
前回はここ。
春秋時代の勢力図はここ。
今回は、呉越の争いの後のこととかその他いろいろ。
勾践さんは紀元前465年に亡くなったと伝わる。
春秋の覇者となってのちは、とくに大した業績はないらしい。
呉を亡ぼしてのち、琅琊(現山東省)に都を移したのだそうだ。
この後の越王は、検索すると9人いるらしい。(うち2人は1年以内の在位)
越の最後の王は无疆という人で、
『史記索穏』によると勾践の6世孫になるのだそうだ。
この人は、紀元前333年に楚との戦いで敗れ、殺された。
(年代については別の記述もあるらしい。)
越は混乱し、分裂。そして滅びたらしい。
越の人々は南へのがれ、そして現在の福建省あたりに閩越という国を建てる。
楚漢戦争では劉邦に加勢し、漢朝の創建に貢献したのだそうだ。
またこの国の都はこの地方最大の都市として栄えたらしい。
が、紀元前111年、漢の武帝により閩越という国は消滅したのだそうです。
さて、話は戻って、呉と越という国。
呉は『史記』の世家の第一。
最初に歴代の王がずらずらずらーっと続き、完全に混乱というか軽くパニック(私だけ?)、しょっぱなから読む気を失くさせてくれますが、開祖から夫差まで名前は伝わっているらしい。
一方越は、無余という開祖以降二十数代、よくはわからないらしい。
勾践の祖父から名前が伝わるようだ。
これは、それまで気にする必要のなかった国がだんだん力をつけて、このころから台頭してきたということなのでしょうか。
呉の国君の姓は周王室と同じ”姬”だと伝えられる。
これは、諸説あるらしい。呉越と楚って中原とは民族がどうも違うらしい。ならば、姬姓は違うということになるけど、史記の伝承の通り支配者が中原から来たのかもしれないし。
越は”姒”姓ではないかと言われるが、これ、禹の姓なんだとか。
…これって、ホントにわからないんだ…?
ほかに、楚の国君一族と繋がりがあって、”芈 ”姓ではないかという研究結果もあるのだそう。
どっちにしろ、確たる資料が無いらしい。
とても有名になっている話なのに、『史記』を見ると「これだけ…?」でびっくりした。『左氏伝』を拾い読み(←スミマセン…)しても、呉はそれでも結構いろいろ話が出ているけれど、越はなんだかちょっと不気味な謎の国家みたいに思える。
実際のところは謎に満ちていて、だからこそ魅力的ってことですかね。
それと、人々に愛されて後世に伝わっていく話は、
時代を経てより面白くなって、
その時の都合でちょっとヒレをつけてみたり、
伝わっていくうちにちょっと間違ってしまったり、
何気なく思い付きで書いてみたらそれが残ってしまったこともあっただろう。
そういうのもひっくるめて面白いですね。
では、呉越の争いにまつわる名言をいくつか。
飛鳥盡,良弓藏,狡兔死,走狗烹。
fēi niǎo jìn,liáng gōng cáng, jiǎo tù sǐ,zǒu gǒu pēng
把鳥打盡了,打完了,那良弓就沒有用處了,兔子已死,那狗也沒用了,不如烹了喫了。指一個人失去了利用價值,就被殺掉或者落下個比別人更慘的下場。
(『史記』)
どんな良い弓でも、よい猟犬でも用がなくなればそれまで。
百度で検索すると、この不幸な末路をたどった皆さんのお名前がでてきます。
范蠡が文種に「早く越王のもとを去りなさい」と送った手紙の内容の一部なんだそうで、これを見た文種は仮病で出仕しなくなった。それから、讒言をするものがあり、死を賜ったんだとか。
文種大人、…引き籠ったのがマズかったんじゃ…?
十年生聚,十年教訓
shí nián shēng jù shí nián jiào xùn
釋義:生聚:繁殖人口,聚積物力;教訓:教育,訓練。
指軍民同心同德,積聚力量,發憤圖強,以洗刷恥辱。
(『左氏伝』)
…これ、どういうときに引用するんでしょうね?
(解釈は百度そのまま引用しました。)
それから、こんな名言もあるらしいのです。(作者は諸説あり、不明)
前句は項羽のことですね。
有誌者,事竟成,破釜沉舟,百二秦川終屬楚;
yǒu zhì zhě shì jìng chéng pò fǔ chén zhōu bǎi èr qín chuān zhōng shǔ chǔ
苦心人,天不負,臥薪嘗膽,三千越甲可吞吳。
kǔ xīn rén tiān bú|bù fù wò xīn cháng dǎn sān qiān yuè jiǎ kě tūn wú
ということで、ごちゃごちゃとした内容ですが、
番外編、ここまでとします。